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東北大学加齢医学研究所 心臓病電子医学分野
東北大学大学院医工学研究科人工臓器医工学講座/ 医学系研究科内科学専攻心臓病電子医学
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ドヤ街からお医者さん。ニコヨンの親分さんから復帰

 せっかく医学部に入ったのに、何パーセントかの学生さんは残念ながら脱落していきます。数回、留年したりすると、退学させられることになります。いまや医学部の入学試験は東大より難しいとまで言われていますので、入学した時には秀才だったはずの学生さんなのに・・・です。実にもったいないことです。先生側にしてみても、落第させたくて落としているわけじゃありません。医者の国家試験は、別に定員制ではなく資格試験なので、所定の医学知識を得ていることが確認できれば、本来ならば合格率100%でも別にかまわないのです。それでも例えば、一学年100人学生さんがいると、例えば、シソフレニーの発症率は人口の1%前後ありますから、精神的に安定を失って学業に耐えない学生さんが、確率的にはどうしても出てきてしまうということがあります。

 私が卒業した当時、うちの医局に入ると、旧帝にしては、めずらしく、すぐ大学の医局の中に机を頂くことが出来ました。他のナンバー内科や、ナンバー外科では、医局の人数が多すぎて新入医局員などには、ぜんぜん机がないことも多かったので、まあまあラッキーなスタートだったと言えるかもしれません。私が使っていた窓際の角の机は、私が入局する半年前まで、先輩のS先生が使っていたそうで、診断、検査や薬のマニュアル、パンフレットが多く残されていました。1年目の医局員では、薬の物質名はわかっていても商品名はわからず、処方する基本的な薬剤の名前すらも、わかりませんから、ありがたく勉強させていただきました。

 以下は、医局で先輩から聞いた、男気溢れた豪傑の、そのS先生の物語です。

 S先生が学生時代のことです。

 やっと学部に進学し、解剖が始まったとたん、ラテン語、ドイツ語で授業を進める新進気鋭の第1解剖学教授に、いきなり落第させられたそうです。当時は教養部の二年間と、医学部専門課程の学部の四年間が、完全に教育課程として分離されていましたので、学部に進学するや否や、たちまち試練に晒されたわけです。

 昔、私の机を使っていた、そのS先生曰く、 「俺、英語だって苦手なのに、ドイツ語やラテン語なんて見る気もしねえ!」・・・だ、そうですが、教授が認めてくれなければ上の学年に進学できません。それでも教育熱心な教授は、再試験をしても、何とか進学させてくれようとはするのですが、要求水準があまりに厳しく、追試験、追追試験と、次々に落ち続け・・・、結局、留年してしまったそうです。残念でしたが仕方がありません。翌年、一年後輩の学生と一緒に、解剖の試験を受けることになりましたが、厳格なことでは音に聞こえたI教授。そんなことを遜色してくださるような先生ではありません。

 ついに留年したS先輩、一年後輩の学生と試験を受けても受かることができません。勉強しても勉強しても受かりそうにないS先輩。ついに頭に来てキレてしまい・・、絶望して仙台から逐電してしまったそうです。

 四国の故郷に帰れば、実家で子供が医者になるのを心待ちに楽しみにしている両親に、とても顔向けできません。

 もちろん仙台に帰ることもできません。

 間を取って?・・・・そこからが、S先輩が豪傑なところなのですが、大阪のドヤ街?に、居着いてしまったそうです。

ドヤ街。 と、言われても今の若い人はわかりませんよね。

 いわゆる日雇いの、非雇い労働者の方々が多く住む街のことで、「宿」を逆にして「ドヤ」だそうです。

 親分肌で、もともと頭の良いS先輩のこと、ドヤ街でも、なんとなく、皆をまとめる立場になって、気が付いたら、日雇労働者の方々を、どこやどこへ派遣するのか何となく決める役割を担うようになってしまったそうです。

 いわゆる一つの、ニコヨンの親分さんですね。ニコヨン。と言っても、若い人にはわからないと思いますし、実は、その話を教えてくれた先輩から伺っていた時には私も知らなかったのですが、昔々、東京都の条例か何かで、肉体労働の方々の最低賃金を決めたことがあったそうで、それが時給240円なのだそうです。それが転じて、肉体労働の関係の方々を「ニコヨン」と、呼ぶようになったそうです。いまは最低賃金も時給800円以上でしょうから、もう通じなくても仕方ないですね。

 S先輩は、気が付いたら、何となく、ドヤ街でも、今で言う「派遣請負業?」で、羽振りが良くなって、ついつい街に居着いてしまったそうです。ところが、大学も、休みに入ったある日、医学部の同級生が  「ところでSは、いったい全体、どこへ行ったんだ・・・?」と、年賀状を頼りに訪ねて来てくれたそうで、ドヤ街にいたS先輩を、ついに探し当ててくれたそうです。その同級生の調べでは、「Sは、留年は決まっても、まだ退学になっていないから、何とかするように」と、教務の先生からそれとなく頼まれていたそうで。

 今も昔も東北大学は家族的な雰囲気があって良いところです。

 二度留年して、もう退学だと進級を諦めて、世を儚んでドヤ街に居着いていたS先輩も、まだ席があると聞いて、これは、もしかするとまだ、チャンスがあるかもしれない。と、仙台に舞い戻り、今度という今度は、さすがに覚悟を決めて勉強したので、さしもの厳しい解剖の教授もついに進学を認めてくれ、何とか進級できた・・・と、医局の先輩から話を聞きました。実は、当時の医学部の進級システムは少し変で、教養部が二年、基礎課程が二年、臨床課程が二年と、限られていました。逆に言うと、二回留年しても、合計4年の間に、基礎課程を修了させることができれば、何とか臨床の課程に進学できるのです。普通は一つの学年では二度目の留年が決まれば、単位を取れきれませんので、S先輩は、さっさとあきらめてしまったわけでしたが、実際には、当時の東北大には3回目のチャンスが残されていたわけでした。

 そのような豪傑のS先輩ですから他にも多くの伝説を残してきたそうです。これは先輩ではなく、病院の技師さんに聞いた話です。

 昔は仙台もあまり豊かでない患者さんが多かったようです。ある日、外来をやっていたS先生が、患者さんに「だいぶ、心不全が進んでいるようなので、入院した方がいいですよ」と、お勧めしたところ、なかなか納得していただけません。医学的には入院が必要だから・・・と、重ねて入院をお勧めしていると、ついに、「先生、私、恥ずかしいんだけど、お金なくって入院できないっちゃ・・・」と、ようやく話しはじめたそうです。

 男気あふれたS先生。それを聴いて 「よし! そんなら入院代は俺が払ってやるから、いいから入院しろ!」と、言いだしました。それを聴いて、さすがに患者さんも目が点。

 真っ青になった外来の看護婦さんが、慌てて医局長に電話し、医局長が、外来にすっ飛んできたそうです。

 「S! それだけはやめろ!」

 「なんでですか? だって入院は必要じゃないですか!」

 「それはそうだが、じゃあ全部の患者さんの入院費、おまえ払う気か?」

 「・・・」

 「いいから俺に任せろ」

  良いことか悪いことかわかりませんが、当時は「学用患者」さん、と、いう制度がありました。学術的に重要な意味を持つ患者さん。あるいは、医学生の実習に有用な患者さんに関しては、大学病院の方で診療費を負担し、患者さんの負担はゼロになります。それはそれでなかなか良い面のような感じですが、患者さん側にしてみれば、タダになる代わり、何となく気後れして、治療方針の決定に、自身の意見が言いにくくなって、意思を反映できなくなりますから、好い点ばかりでもありません。もちろん、いまではとても無理な制度ですが、当時は上手く活用していた面もありました。この時も、医局長が気をまわして上手く学用患者さんのリストに入れてくれて、S先生のその患者さんも無事入院できたそうです。なんでも医者や外来の看護婦さんたちやレントゲン技師さんだけでなく、古手のスタッフまでも良く知っている伝説の有名な実話だったようです。

Last modified:2011/06/21 17:33:59
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